“キリストの似姿に近付く黙想はリバイバルの鍵”



山陰と日本全国の主にある諸先生方と日本の全てのキリスト者の皆様へ

       2014年12月恵日
米子復活教会・鳥取復活教会牧師:佐藤勝徳



【はじめに】主よ、来たりませ!(マラナタ!)
主イエス様が「わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)と御再臨を約束されてから、約2000年の時が過ぎて行きました。主はいつ御再臨されるのでしょうか。あと1000年も2000年もかかるのでしょうか。そうではないと思います。その日その時は誰も明確に知る事は出来ませんが、主の「わたしはすぐに来る」という約束の言葉からして、私は、目の前に来ていると信じています。その理由は、イスラエルが主の御再臨される世の終わりに、アブラハム・イサク・ヤコブに神が約束された約束の地に帰還するという聖書の預言通りに、今、約束の地に帰還し1948年5月14日にイスラエル国家を樹立させた事にあります。約2000年失われていた国が回復したという国はイスラエル以外には存在しません。正に歴史を支配されている全知全能の神様の為せる御業ではないでしょうか。歴史の時間は、1948年5月14日から一気に主の御再臨に向かって突き進んでいると私は思わされています。

▲主が、「わたしはすぐに来る」と約束された理由
第1に、罪を徹底して憎む聖なる神様の、罪に満ちた邪悪な世界を一日も早く終わらせ、私達を罪のない幸いな聖なる神の国に一日も早く住まわせたいという御心によります。
第2に、争いと病と死の苦しみの中にある多くの人の痛みや苦しみを共に共有されている愛に満ち溢れた神様の、一日も早くそのような苦しみから老若男女の多くの人を解放し、死も病も痛みも苦しみも争いもない神の国へ導きたいという御心によります。
第3に、信仰によって義とされた義人であるキリスト者の集まりのキリストの教会を花嫁として迎え、キリスト者に花婿なるキリストと顔と顔とを合わせて会いまみえる最高の交わりの喜びを早く体感させたい、という神様の御心によります。
第4に、アブラハム契約とダビデ契約を守る真実なお方として、早くその約束を実現させ、イスラエルの為の約束のメシヤ王国(1000年王国)を樹立させたいという、イスラエルを激しくこよなく愛する神様の御心によります。
第5に、キリストにあって世界を一つにするという創造目的を一日も早く実現させたいとする神様の御心によります。
私達も神様の御心を愛し、主に向かって「主よ、すぐに来て下さい!」と叫ぶことが出来る霊性を持てるように、主の助けを祈りたいものです。

【主の御再臨に備える異邦人キリスト者とは】

①ユダヤ人に妬みを感じさせる異邦人キリスト者/
置換神学からの転換者
主の御再臨の時には、主をお迎えするに相応しい異邦人キリスト者が必要となります。それは、ユダヤ人に妬みを感じさせる程、キリストの様に愛と正義と聖さに生きるキリスト者です。イエス様がアブラハム契約とダビデ契約に基づき1000年王国とよばれるメシヤ王国を樹立させる為に、ユダヤ人を民族ごと回心に導かれる事をパウロはローマ書で預言しています。(ローマ11:25-27)。その為に必要な器が「ユダヤ人に妬みを感じさせる程、キリストの如く聖化された異邦人キリスト者」です。それが神様のユダヤ人をお救いになる為のご計画です。パウロは次のように教えています。「そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」(ローマ11:13-14)。
今日まで、多くのキリスト者は、反ユダヤ主義に基づく置換神学の影響と、キリスト者が「主と共に古き人が十字架で死に、主と共に甦って神の徳で満ち満ちた者となった」という聖化の福音に聖霊によって目が開かれた指導者が大変少なかった事により、パウロの説く福音の全体像を知らされて来なかった為に、徹底して100%キリストに従って生きるという献身が不十分な信仰者のままで置かれてきました。その事が原因でユダヤ人に異邦人キリスト者に妬みを感じさせてユダヤ人を救いに導くという神の計画が妨げられてきました。
キリスト教の歴史の中で多くの教会が置換神学の影響で反ユダヤ人主義に陥り、ユダヤ人に妬みどころか大きな躓きと憎しみをもたらして来ました。「新約聖書はユダヤ人殺しの為に書かれていると思っていた」と、ある異邦人キリスト者に妬みを感じて救われたユダヤ人キリスト者から私は聞きました。今日、救われたユダヤ人キリスト者は、過去、多くのクリスチャンによってユダヤ人が迫害を受けてきましたので、クリスチャンと呼ばれる事を拒否し自分達の事を「メシヤニックジュー」と呼んでいます。また、キリスト教の伝道集会で十字軍を意味する「クルセード」の用語が使用される事を忌み嫌っているとも聞き及んでいます。何故なら十字軍によって多くのユダヤ人が迫害を受けたという歴史があるからです。又、600万人のユダヤ人を虐殺したヒトラーによるホロコーストに当時のナチの支配を受けていたヨーロッパ諸国の多くの教会が、ナチを恐れて加担した事もユダヤ人にとっては大きな躓きとなっています。これまでのダヤ人の迫害の歴史の背後に、キリスト教会の置換神学(ユダヤ人がキリストを殺した為に、ユダヤ人の選民としての使命と祝福の約束は終わり、それがキリスト教会に置きかえられたという事で、置き換え神学、置換神学と呼ばれている)があったと言われています。置換神学という言葉を私が初めて知ったのは、20年以上も前になりますが、反ユダヤ主義を培ってきたその「置換神学」が間違いである事を、メシヤニックジューの神学者「フルクテンバウム博士」の講演によって、私は気づくようになりました。また、7年前に、パウロの説く福音の全体像を聖霊によって直接に諭して頂き、キリストの様に生きる秘訣を教えて頂きました。そうした私の個人的な霊的体験によって、パウロの説く福音の全体像を聖霊によって諭して頂く人がこの日本に多く生み出されれば、神様のリバイバルの御業が進み、又、「ユダヤ人に異邦人キリスト者の素晴らしさに妬みを感じさせて、ユダヤ人を救いに導く」という神の計画が一気に前進すると信じるようになり、私はその福音の説き明かしに力を入れてきました。
しかし、その後、私にとっての最大の課題となったのは、信徒の兄弟姉妹方が、生活の全ての領域(マーケットプレス)に主をお招きして御霊の細き御声を聴き分けて、従順な生活を特徴とした健全クリスチャン生活を送る、主の弟子としての道を歩むキリスト者に整え訓練させて頂く事でした。「聖霊の細き御声を聴き分けて従いましょう」というメッセージを繰り返し伝えてきましたが、なかなか浸透しません。そのような課題を抱えていた私に主は、昨年IMM JAPANに出会わせて下さいました。

②「主への謙遜と100%の献身と主を恐れる」
の三つを加味したキリスト者
 IMMJAPANは米国の金山昌秀ドクターによって昨年の7月に米国で設立されましたNPOです。金山ドクターは、「日本に1000年王国の雛型としてのリバイバルを起こす」と主から啓示を受けられ、その主のリバイバルの御業に必要とされる条件が、主の御前に謙遜な人、主に100%献身する人、神を恐れ罪から遠ざかる人という三つの条件を加味した日本人キリスト者の出現だと示されています。その条件は真に聖書の教えに叶ったものです。三つの条件を加味したキリスト者こそが、リバイバルの為だけでなく、主の御再臨の備えに必要なキリスト者です。そのようなキリスト者が、ユダヤ人に妬みを起こしてユダヤ人を救いに導く神のご計画が進められていきます。また、そのようなキリスト者が、主の各個教会が健全に形成され成長していく為、更に、目に見えない聖なる公同教会の形成の為にも、最も必要とされているキリスト者です。
私達は使徒信条を礼拝で唱え、聖なる公同教会を信じる信仰告白をしています。聖なる公同教会とは、イエス・キリストをわが神わが主と信じる信仰を告白している全てのキリスト者によって形成されている、目に見えない普遍的な主の御体なる教会の事を意味しているでしょう。それは教団・教派や各個教会を超えて、たとえどこの教会にも所属していないキリスト者であったとしても、全て主を信じる信仰をもっている全てのキリスト者によって存在しているものです。私たちの罪の為に十字架にかかり死んで葬られ三日目に甦られたキリストを信じている私達は、一人の牧者に導かれている、一つの群に属している者同士です。
「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、・・を信ず。」(使徒信条より)

③教会に分裂をもたらさないキリスト者
日本の多くの教会が少し成長すれば分裂を繰り返えしていると聞き及んでいますが、その最大の原因は聖書も教えているように、罪の性質をもっている古い人から生じるも肉の働きによります。肉の働きを使って悪魔が教会を混乱させています。そのような肉に対処するのは御霊です。キリスト者が御霊の導きに忠実に生きる時に、肉の働きは遮断されます。全てのキリスト者が御霊の細き御声に従って生きて行く「健全なキリスト者」となる為に、古い人が十字架でキリストと共に死に、キリストと共に甦ってキリストの様に神の徳で満ち満ちた者とされているという、救いの御業に目が開かれている事が絶対に必要です。それに目が開かれていないと、古い人から生じる肉の傷ついた自尊心に囚われたり、邪悪の妬みや恨みの感情に囚われて、心にサタンに機会を与える隙間を持つようになります。又、そうした邪悪な感情を持っている事を知られると名誉にかかわりますから、牧師方やキリスト者の中に、そのような邪悪な感情を他のキリスト者や隣人に知られたくないので、ある人への批判を正当化する為に、巧妙に聖書の言葉や神学用語を使って自己正当化を装い、批判を繰り返し他者のみならず自分をも騙していきます。徹底して真実に生きていないキリスト者はその欺瞞を掻き消し、いつしか欺瞞も欺瞞と思わないようになり、間違った自己正当化の罠に更に深く落ち込んで行くのです。一見正しく見えるその欺瞞が教会や教団をキリスト中心から牧師中心の教会、人間中心、プログラム中心、イベント中心の宗教的教会へと静かに、静かにサタンによって貶められて行くのです。そこにあるのは、神の栄光でなく人間の栄光であり、人間の自己満足があるだけとなります。

【教会指導者の役割り】

①全てのキリスト者を
主に喜んで仕える奉仕者に訓練し整える
教会の指導者である私達牧師と伝道者は、積極的な宣教と健全な教会形成の為に、教会員の兄弟姉妹を主の御前に、謙遜と100%の献身と神への恐れるという、三つの条件を加味したキリストの如きキリスト者となるように訓練し整えて、徹底して主の仕える奉仕者となる為に立てられ召されています。エペソ書4章11節~13節に、教会指導者の役割りが次のように教えられています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。
私達教会の指導者は、主にある兄弟姉妹を、三つの条件を加味した、キリストの様に従順で愛と聖さに生きるキリスト者へと、整える為にどのように指導し訓練すれば良いのでしょうか。

②IMMJAPANのPSGの実践は現代の
キリスト者を訓練し整える最も相応しい方法の一つ
IMMJAPANの二人~三人のPSG(プレイヤースモー
ルグループ)の目的は、人を集める事でなく、黙想を通して、神様と個人的関係を築くキリス者へと訓練する事にあります。訓練されたキリスト者は、やがて、自分の家の隠れた部屋で、神様と一対一の深い交わりの時を喜んで持つようになり、キリストの似姿にだんだんと変えられ、御霊の細き御声に聞き従う従順な人へと引き上げられ、リバイバルの為に、また、ユダヤ人の救いと主の御再臨に備えるキリスト者として整えられていきます。それがPSGの目的です。
私はこれまで、40年の牧会生活の中で、聖徒の兄弟姉妹の訓練の為に色々と学び取り組んで来ましたが、上手く行きませんでした。しかし、金山ドクターが主によって示されたIMMJAPANのPSGによる、90分の黙想を実際に行ってはっきりして来た事は、それは今日の日本のキリスト者に最もぴったりとした訓練方法だという事です。PSGの中で、主が、聖書の言葉の意味を解説して下さったり、預言的な幻が示されたり、聖書通読や聖書黙想の具体的な仕方について直接に指導をして下さったり、聖書の御言葉が示されたりする事を実際に体験し、だんだんと自分の知恵や力により頼むという「力み」から解放され、主からの知恵と力に信頼し、主に委ねる信仰が訓練され培われ、少しづつですが主の弟子として整えられはじめている事を体感しています。
私は40年の牧会生活をしてきた者として、全てのクリスチャンが日本のリバイバルの為という熱心な福音宣
教と健全な教会形成の必要なキリスト者となる為に、全国の諸先生や兄弟姉妹に、費用もかからず経済的負担も一切かからず、時間さえ惜しまなければ誰もが気軽に実践できるIMMJAPANのPSGによる90分の黙想の実践を心から推薦をいたします。
これまで、纏まった教会形成と成長のセミナーの為には、多額の研修費を必要として、経済的に負担がありましたが、PSGにはそれがありません。主が直接の講師となって、主から直接の知恵や方法が示されて行きますので、全くの無料です。魂の羊飼いであり、監督であり、教会の頭である主の御霊による細き御声を鋭く聞き分ける霊的感性が研ぎ澄まされていきますので、それが可能となります。人を介しての学びも必要ですが、人を介さないで直接的に主から学ぶ事はもっと重要と考えます。PSGの実践は金山ドクターが主から日本のキリスト者の為に示された,主の御再臨を目の前にした、この終わりの時代の主からの深い恵みの賜物と言って良いでしょう。
一例として、私の体験をご紹介しておきます。私は主に「どうすれば聖書を楽しく日々通読できるでしょうか」と祈り求めていましたが、PSGの中で主の答が三つありました。一つは饅頭の幻が示され、「聖書はあなたにとって美味しい饅頭だと思いなさい」という事でした。つまり聖書は霊的スイーツだと示されました。次に、主が直接に私に「聖書は私からの愛の手紙です」と言われました。これまで、聖書は「神様のラブレター」だと聞かされて来ましたが、その事を主は直接私に語って下さったのです。最後に、「私と対話しながら読みなさい」と対話的通読方法を教えてくださいました。実際に対話的聖書通読、対話的聖書黙想を実践することによって、聖書を読むことが以前にまして義務を超えて楽しみとなってきました。聖書を単に読み学ぶのでなく、聖書によって主と対話が出来る事を知り、聖書を読む事に餓え渇きを覚えるようになりました。又、聖書の細かい記述もよく心に留まるようになりました。例えばですが、貧しいやもめの献金についての教えの中で、主は「お立ちになっていた」と思っていましたが、聖書の記述は「座って」となっていました。それは対話的通読法によって気づいたのです。聖書を啓示された真の著者である神様と楽しい対話をしようとすると、細かい部分も観察する観察能力が自然に身に着く事も分かりました。聖書によって実際に神様と生きた対話できる恵みはなんと大きい事でしょうか。祈り同様に、聖者が書かれた目的は、キリストとの生きた対話をする為にあり、単に神学を学んだり教理を学んだりする聖書研究の為ではなかったのです。主が教えて下さった対話的通読法はその目的に合致したものです。私のすすめにより、教会のメンバーの中で対話的通読を実践して、聖書を読む事が楽しくなり、聖書を読んで神様の恵みを直接自分で会得することが出来るようになっている人が生まれてきています。PSGを通して主は私に牧会の為の有効な知恵を与えて下さる事が分かりました。それは私の長年の夢でした。直接主の御声と知恵を聞き分けて従う事が健全な牧会の道だと牧師になった当初からずーと思っていましたが、大変不十分だったのです。

【PSGの恵みと力】

①肉の人から霊の人へ刷新する恵みと力
IMMJAPANのPSG(プレイヤースモールグループ)は正にイザヤ書40章31節の「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という約束の御言葉を体験させています。「新しく力を」の「新しく」と訳されているヘブル語原語の原意が「過ぎ去る」とか「通り抜ける」という意味の言葉が使用されています。そこから、「そこにあるものに代わって別のものが入ってくる」という刷新という意味が生まれてきました。ですので、直訳すると「刷新の力」になると思います。静まって主を待ち望む習慣は、キリスト者に自分の知恵や力である肉に寄り頼む心が過ぎ去り、主の知恵と力により頼む心が培われ、心には肉に代わり聖霊が入れ替わってやってきます。つまり肉から聖霊に刷新されます。その結果、そのキリスト者は鷲のように翼をかって昇るという霊的高嶺にぐーんと引き上げられていくのです。私は、自分たちのPSGの体験からその事を知ってきました。私の教会のひとりの姉妹は、PSGで主との交わりの体験を深めて行き、古い人が十字架で死んだという霊的事実に目が開かれて、喜びに満ち溢れています。姉妹の魂の大変革は、PSGの驚くべき刷新能力を物語っています。彼女は100%命がけで主に従っていきたいと思うようになりました。このような多くの良き実が結ばれている事を、IMMJAPANに反対したり批判したりしている牧師方やキリスト者の兄弟姉妹方はどのように受け止めるのでしょうか。主は実によって見分けなさいと教えておられる事を是非思い出して下さい。

②知恵と啓示の霊である御霊の諭し受ける恵みと力
 PSGは、不思議に知恵と啓示の霊である聖霊の油注ぎがあり、参加しているキリスト者に聖書の御言葉の真理を悟るように導かれています。日本のリーダーである足立省三兄弟は、PSGを通して一年かけてパウロの説く福音の全体像の説き明かしを受けて来られたと聞いております。私が三十六年間かかってやっと会得したローマ書やその他のパウロ書簡で説かれているパウロの福音の全体像を、足立兄弟は一年で会得したというのです。私は自分が会得した「パウロの福音の全体像」を、今年8月に金山ドクターと足立兄弟に送りましたところびっくりされたというのです。それは、自分達が主から直接解説を受け諭しに導かれた福音理解とピタッと一致していたというのです。上述している通り、私のメンバーもPSGの中で主との交わりが深められていき、10月17日に主から直接、これまで繰り返し聞いてきた「古い人は十字架でキリストと共に死んだ」という福音を諭され、喜びと平安に満ち溢れるという体験をしています。又、今年9月恵日、大阪のPSGで、二人の姉妹方が「パウロの説く福音の全体像について主から直接説き明かしを受けた」と証をされていました。主はIMMJAPANのPSGによって、日本の多くのキリスト者が日本のリバイバルの為、又、ユダヤ人に妬みを起こさせるキリスト者に整えられる為に、知恵と啓示の霊である御霊の働きで、パウロの説く福音の全体像を諭されています。その事実に反対や批判をされている方々は是非目を向けて頂きたいと思います。「古い人がキリストと共に十字架で死に、キリストと共に甦り、神の徳で満ち溢れた者とすでにされている」というパウロの説く福音の全体像をキリスト者が聖霊によって諭される時に、古い人から生じる邪悪な感情に対処する術が会得し、同時に愛と赦しに満ち溢れ、キリストの様に生きる道も会得して行きます。IMM JAPANのPSGの恵みと力は、それに参加するキリスト者をリバイバル為に、又、主の再臨に備える為に必要なキリスト者へと魂に偉大な変革を与えるのです。又、パウロの説く福音の全体像を聖霊によって諭して頂きながら、御霊に徹底して従っていくキリスト者が増えれば増える程、教会はより健全に形成と成長の道を辿るでしょう。そのようなキリスト者は決して教会に分裂をもたらす原因とはならないのです。教会に分裂をもたらす危険なキリスト者は、「2000年昔にキリストと共に死んで、キリストと共に甦って、キリストと共に天の座に着いた」という、霊的事実を聖霊によって諭して頂いていないキリスト者です。それは、牧師とか信徒という立場に関係はありません。ぜひ、聖霊の諭しを求めて頂きたいと思います。ある韓国の老齢の牧師は若い頃、牧会に躓いた時に先輩牧師よりローマ書七章を百回読むように勧められ、それを実践した結果、パウロの説く福音に目が開かれたと、直接その体験を聞かせて下さいました。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた・・」(ローマ6:6) 「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、・・」(エペソ2:6)



【各個教会とIMMJAPANとの
健全な関係の構築の為に】
 これまで、IMMJAPANに関する批判がいくつか直接的に、また間接的に知らされてきましたので、その点について私の聖書的弁明をお伝えしておきます。

①IMMJAPANはカルトではない
▲IMMJAPANはトップダウン式の組織ではない
 これまで私に直接寄せられてきた批判文書に、「IMMJAPANはトップダウン式のカルトだ」と断定されてきた批判がありましたが、それは欺瞞的な批判です。何故そのように批判をされているかと言いますと、「創立者の金山ドクターと金山ドクターがニューヨークで経営している病院のオフィースマネェージャのサブリーナ姉妹に示された啓示が絶対となり、それがトップダウン形式に伝えられ絶対服従が求められているからです。それに逆らう事が許されないので傷ついた人がいる」という内容でした。この批判に悪魔の巧妙な欺瞞が入り込んでいます。金山ドクターの色々なメッセージを聞いておりますが、金山ドクターに従え、サブリーナさん(金山ドクターのとりなし手ではありますが、IMMJAPANの働き手ではありません)に従えとは一度も言われていません。メッセージの中心テーマは、「生活の全ての領域で心低くして、主に聞き従い、主と共に歩みましょう」です。それ以外にありません。それがこの世の言ういわゆる「トップダウン式」のカルト的組織でしょうか。私達牧師が、もし、神様に示された事として、礼拝メッセージで「心を低くして、主に聞き従い、主と共に歩みましょう」と言えば、トップダウン式のカルトになるのでしょうか。キリスト者の自由は、人にではなく、牧師方にではなく、主から直接御声を聴いて主に聞き従う事です。それがキリスト者の真の自由なのです。それは犠牲の伴う命の細い道ですので、それを嫌がる人が、金山ドクターのメッセージを聞いて、自分で自分を傷つけているのかもしれません。「傷ついた人がいる」という言葉だけで批判する事は大いなる欺瞞ですのでお互い気を付けましょう。

▲IMMJAPANは目に見えない普遍的な聖なる公同教会に属する信徒の集まりです
ある人は、IMMJAPANの創立者である金山昌秀ドクターや日本のリーダーである足立省三兄弟が自分達の所属している教会を明かさないので(金山ドクターも足立省三氏もそれぞれ所属教会があります)カルトだと決めかかっている人がおられますが、それも欺瞞です。私達は、全てのキリスト者を、異端か、カルトかを見極める為に最も必要な事は、どの教団に属しているとか、どの教会に属しているとか、どのような宣教団体に属しているとかは全く関係がありません。大事なのは、どのような信仰を告白しているかという事です。キリストを正しく信じる信仰を告白していれば、宣教論によってカルトだとか異端呼ばわりしてはいけないのです! 聖書のどこにも、そのような基準で人を計るように教えていません。主を正しく信じる信仰を告白している人は、全て主と一体化されている主にある兄弟姉妹で、キリストの尊い血によって贖われた者として、キリストと等しい価値ある尊い存在として神様に大変喜ばれ愛されているのです。どこの教会に属しているのかという問いに対して、私は「主の聖なる公同教会に属している方です」という返答で十分だと思っています。どこの教会に属している明らかにしない事を理由にカルト呼ばわりし、又、信用できないと批判する人は、金山ドクターによるIMMJAPANの働きを受け入れたくない為に、或いは反対する為に考えた、口実に過ぎないでしょう。欺瞞だと思います。それは、バプテスマのヨハネやイエス様の活動を「何の権威で行うのか」と問いかけた、偽善者のパリサイ人や律法学者や祭司達と同じ質問をしているのではないでしょうか。

▲神様の知恵や力に満たされるために、神様の前に
心を空っぽにする事は聖書的で正しい
ある牧師夫人が、「IMMJAPANの金山ドクターのメッセージに感動しましたが、そこに集っている人が金山ドクターをイエス様以上にほめたたえている事に問題を感じた」と、肯定と批判の混ざったメールを送って来られました。しかし、金山ドクターをイエス様以上に賛辞をしている人がいれば、それはその人個人の霊的問題であり,金山ドクターやIMMJAPANそのものの問題ではありません。そのような一寸した批判が、だからIMMJAPANに問題があるという間違った判断、予断偏見を広げて行く原因となりますので、その事を弁えて発言する事が求められるでしょう。
  ある人は、IMMJAPANのPSGの黙想で心を空っぽにさせる事がカルトだと批判をされています。そのような批判は全く当たっていません。そのような批判をする人は、聖書の教えそのものをカルトだと言っている事に気づくべきでしょう。詩篇46篇10節の「静まって、私こそ神であることを知れ」を実際に実践せずに批判しているのでしょう。静まるという言葉の原語の意味は、浸す、垂れる、弱らせる、捨てるという事です。そこから、肉の働きを全て神様に丸投げして、人間に頼る事を一切やめる事ですので、「やめよ」とか「捨てよ」とも翻訳されています。神を神として知る為、神様の恵みと力に満たされる為に、真の神様に対して心を「空」にし、王であり頭である主が自分に何を求め、何を示されるのか、主に聞き従う僕として、主の語りかけを感謝と喜びと期待の内に待つのです。私達の心が人間的なもので一杯になっていると、神様の恵みが入る余地がありませんから、神様は恵みを注ぎたくても、注ぐことが出来ないので、心にある人間的なものを全て神様に委ねる事を求めておられるのです。そうすると、ある人は聖書の言葉に意味について、まるで押し問答のようにして主と交わりながら説き明かしを受けたり、読むべき聖書の箇所を示されたりしています。ある人は、幻を見たり、聖歌を繰り返し歌うように導かれたりします。また、その時に抱えている問題に関しての主の答えを頂いたりもします。主が「なぞなぞ遊び」をされたりする大変ユーモアの満ちたお方である事も示されたりもします。聖書の説き明かしもされます。主の激しい感情が示される事もあります。PSGは福音書の過去のキリストでなく、今生きておられる活けるキリストを体験させるのです。今を生きるキリスト者にとって、福音書の過去のキリストを知る事も大事ですが、御復活をされた今を共に生きて下さっている活けるキリストを御霊によって実際に知る事に優って価値あるものはありません。活けるキリストを体験的に知る事の価値を知ったパウロは、それまで価値あると思っていた事はみな「損」だとか「糞土」のように思っていると断言しています。そのような最も価値をある体験を得させるPSGの黙想を「カルトの手法だ」と言って批判する人は、神を恐れましょう!
 「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、・・」(ピリピ3:8)

▲実によって見分けよ
IMMJAPANの金山ドクターは、主に聞き従う自由を会得していない日本の多くのキリスト者が自分自身か、他者に束縛されている罠に落ち込んでいるので、そこから救う為に活動をされているのです。日本の多くの教会は教理的には正統的で福音的な教えを語っているかもしれませんが、実際の在り方は組織として非福音的な在り方がなされ疑問視されていますので、「日本のカルト化されている教会」について、以前クリスチャン新聞が警鐘を鳴らしていました。現代の多くの教会は、ご自分達がカルト化していないか、注意が必要でしょう。信徒の兄弟姉妹に「御霊によって歩む自由」を許さない教会は危険ではないでしょうか。パウロはキリスト者の自由について次のように教えています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」
(ガラテヤ5:1)
 IMMJAPANの創設者である金山ドクターがカルトや異端の団体としてIMMJAPANを創設した偽預言者かどうか知る方法は、主の教えでは「実によって見分ける」事が教えられています。金山ドクターの生活が、キリストの如き愛と聖さと正しさを表しているならば、本物です。金山ドクターが本物である事を私は証明します。私は、金山ドクターのメッセージに二つほど疑問を持ち、その事を日本のリーダーである足立省三氏に伝えました。足立氏より金山ドクターにその事が伝達されました。あくる日の朝、ニューヨークから私に直接に電話をされて来られ、私の疑問に見事に答えて下さいました。まことに謙遜なドクターだとはっきりと分からせて頂きました。又、スタッフの一つの小さなミスについても私に電話で謝罪をされてきました。そうした電話をニューヨークからこれまで私は三度も受けて、金山ドクターの謙遜な人柄に御霊の実を見る事ができました。又、金山ドクターは2006年から米国でトップドクターを続けておられる事も、金山ドクターに御霊の実を見る事が出来ます。そのような金山ドクターの日常の良き御霊の実を見ないで、それに目をつむって批判を繰り返す人は、神を恐れましょう。
「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。」(ルカ6:43)「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」(マタイ7:15~16)

②教会にしのびよるカルト化
教会の指導者が、個々のキリスト者に教会組織においても、プライベートな生活においても御霊の細き御声を聴き分けて、主に聞き従う自由を教え訓練せずに、もしですが、教会指導者に何でも相談し指示を受けなければならないと指導をしているとすれば、つまり牧師中心の教会となっているとすれば、それこそカルト化の危険がある教会だと言えないでしょうか。教会の指導者はバプテスマのヨハネの様でなければならないと思います。ヨハネは自分の周りに集まった民衆を、キリストに目を向けさせ、静かに過ぎ去って行きました。教会の指導者の役割りは、教会の会衆を組織以上にキリストとの個人的な関係をしっかりと結び、キリストの御声を聴いてキリストに100%従い、キリスト共に歩むように指導し訓練し、それが終わればヨハネのように「彼は必ず栄え、わたしは衰える。」(ヨハネ3:30)と言って、それぞれは静かに過ぎ去っていく必要があります。それが出来るのは自分が実際にキリストとの個人的関係の確立に努めている指導者達です。活けるキリストとの個人的な結びつきは、神様に実際に支配された天国の喜びがありますから、自ずと人々にそのような喜びの人生を歩んでほしいと願い、「熱心に指導」をします。金山ドクターはその様な生き方に卓越したまれに見る聖徒の一人です。その喜びを携えてこれまで幾度も来日され、日本のリバイバルの為に「主に聞き従いましょう」と、キリストが与えて下さった真の自由の中に日本のキリスト者が生きるように、命がけでメッセージをされています。そこには多くの犠牲が神様にささげられているのです。それが人を傷つける組織でしょうか。それが人の自由を束縛するカルトでしょうか。「カルト」とか「傷ついた」と言えば、人はすぐに身を引きますので、大変巧妙な欺瞞的批判となっています。そのような批判をインターネットで流された人達は神様を恐れるべきです。
先日、11月24日の日本基督教団の修養会で、岡山の赤磐教会の額田先生が、現代キリスト教会への警鐘として次の様に教えられていました。「枯れて行く教会」は「牧師中心の教会」、「命溢れる教会」は「イエス様中心の教会」だと。皆さんはどのように思われますか。

③IMMJAPANは異端ではない
▲欺瞞的な批判とは
 ある方から、「教会の指導者の相談なしに自分の教会員をIMMJAPANの奉仕活動をさせるのは異端だと、ある牧師達が批判をされている」とお聞きしていますが、それも欺瞞的な批判です。異端と聞けばだれもが恐れてすぐに身を引きますので、そのような批判には偽りの父である悪魔が背後にいると思います。異端だと主張する時には、聖書が教えているように、「キリストを信じるだけでは救われない。信仰にプラス行いが必要だ」と教える団体や教師です。パウロはその様な福音を呪われた福音であり、そんな福音を説く者は去勢せよと厳しく断じています。次に、異端とは三位一体の神を認めないキリスト教団体や教師です。特に、キリストが神であり人であるという、メシヤ神人説を否定する教えです。それが異端だとヨハネが教えています。金山ドクターのメッセージにはそのような教えは一つもありません。もし、そうであるなら、私はすぐに気が付きます。長年、統一協会の青年達を救出する奉仕をしてきましたので、特に救いの教理やキリストに関する教えには敏感になっていると思います。IMMJAPANを異端と呼んで脅しをかけて、キリストの僕である信徒に許されている「御霊によって生きる自由」を奪うのは、欺瞞的批判となりますから、神を恐れる必要があります。

▲批判は先ず自分の疑問や批判を疑ってから
  私は、神学生時代に懐疑主義者へと導かれました。考える事が苦手であった私ですので、ある時神様に、「人間を何故考えるように造られたのですか。考えるから悩み苦しむのではないですか」と、子どもじみた躓きを神様にぶっつけました。そうすると神様は伝道の書で答えをくださいました。「逆境の日には考えよ」と。私は、考える事が神様の御心だとはっきりしましたので、とことん考える決断をしました。その為に、全ての事に疑問符をかけました。「何で?」「なぜ?」。そうするとこれまで信じていた神様の愛さえ信じられなくなり、心の中は闇となりました。悲惨な世界を許されている神様を心底憎む心が湧き起こってきたのです。真っ暗な井戸の底に落ち込んだ感じでした。その時に、「神様の愛を疑っているお前の疑問が絶対的に正しいとなぜ言えるか。お前は相対的な存在で不完全なものだ。なのに何故自分の疑問を絶対化しているのか。これが絶対に正しいと言えるのは、絶対者以外にないのに、自分の疑問を絶対化するのは、傲慢の為せる罪だ」と自分に言い聞かせているのです。それによって、全ての考えをストップせざるを得ない絶望状況に追い込まれました。しかし、そんな私の心に一条の光が射し込んで来たのです。相対的な自分が自己絶対する傲慢の罪から逃れるには、「絶対者の考えやみ心こそ絶対と言える。絶対者の神の御声を聴けば良いのだ」と、思ったのです。その時に、これまで教会で教えられてきた「聖書は神の言葉」だという事を思い出し、なぜ聖書が神の言葉と言
えるのか、自分なりに徹底して調べる事にしたのです。詳細は省きますが、その結果、聖書六十六巻を神の啓示の書として、絶対的な神の言葉として受け入れたのです。聖書主義者の誕生です。聖書の教えが絶対の物差しとなり、聖書の教えに合わない事は拒否しようと決断しました。その結果、ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」に出会い、そこに教えられているパウロの説く「福音の全体像」を徹底して究明する神学生生活が始まりました。寝ても覚めての「キリスト者の標準」で説かれている真理の福音について考えるようになりました。それは牧師になってからも同様でした。
 大変、僭越的かと思いますが、IMMJAPANを批判する牧師方や全てのキリスト者にお願いします。ご自分の疑問や批判が聖書の教えに叶っているかどうか、主の御心と一致しているかどうか、その批判や疑問に疑問の網をかけて頂けないでしょうか。そうすれば,IMMJAPANは聖書の教えに叶った、主から出ている信徒によるリバイバル運動の宣教団体だときっとお気づきになるでしょう

④IMMJAPANと教会の健全な関係
では、信徒のリバイバル運動であるIMMJAPANの奉仕に各個教会の信徒の兄弟姉妹方が喜んで参加したい、或いは喜んでPSGをもちたいという事が起こればどうすれば良いのでしょうか。IMMJAPANの働きが主から出ていると理解して受け入れて、日本のリバイバルを求める牧師の教会では問題にならないでしょうが、まだ理解が出来ないでいる牧師方や反対している牧師方の教会では、恐らく問題とされるでしょう。

▲命がけで真実を追求している人
IMMJAPANの働きが実際に主から出ている運動かどうかは、命がけで真実を求める人であれば、さほど時間をかけずにすぐに理解できるように主は導かれます。私はその事を体験的に証が出来ます。私は、まだIMMJAPANを知らなかった今年の6月に、金山ドクターのメッセージをCDやDVDで四回ほど繰り返し聞きました。又、今年7月に行われた松江の大会で、直接金山ドクターのメッセージを聞きましたが、主は私に「真実な聖書の教えに沿った金山ドクターのメッセージには嘘がない真実だ」と教えて下さいました。また、二回ほどPSGを実際に体験して、PSGに主の油が注がれている事をキャッチしましたので、PSGの本質をすぐに聖霊によって諭して頂きました。私が、たった二回のPSGでその本質を理解した事については、金山ドクターも日本のリーダーである足立省三兄弟もその他のスタッフの方も驚かれていました。IMMJAPANのPSGは特に、詩篇46篇10節の「静まってわたしこそ神である事を知れ」とイザヤ書40章31節の「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」の命令と約束を信じての実践行動です。もし、批判と反対をされている牧師方やキリスト者の中で、実際にその二つの聖書の御言葉を実践されていましたら、恐らく批判や反対をせず、逆に奨励をされているだろうと思います。命がけで真実を追求し真実に生きる事を求めようではありませんか

▲「真実にとって欺瞞ほど嘘より立ちの悪い敵はない」
私は、上記への御言葉を実践していませんでしたが、三年程前より、日本の教会のある牧師たちの欺瞞と闘い、ある意味命がけで真実を求める生活を送ってきました。牧師方の欺瞞を批判し抗議してきましたので、私への風当たりは大変強くなりました。欺瞞を見抜くのは非常に難しいものです。特に牧師方の欺瞞を見抜くのは非常に厄介な問題です。ある人が言いました「真実にとって欺瞞ほど嘘より立ちの悪い敵はない」と。私も自分の過去の約三年の牧師方の欺瞞との闘いで次のように言う事が出来ます。「真実にとって欺瞞ほど嘘より立ちの悪い敵はない」と。先ず、反対や批判をされている牧師方やキリスト者の兄弟姉妹にお尋ねします。自分の批判や反対が「主から出ている」と心の底からパウロのように証が出来るでしょうか。御霊がその批判や反対の証人となっているでしょうか。又、聖書の教えに叶っているでしょうか。キリストの如く、どんな人も愛する命がけの愛が批判の動機となっているでしょうか。もしそうでなければ、それは立ちの悪い欺瞞となりますので、神を恐れなければなりません。キリストの愛が動機でなければ全てが空しいと聖書は教えています。ヤコブは「主の御心であれば、これもしよう、あれもしよう、というべきでる」と教えています。もし、主の御心を深く伺わずに、又、聖書的かどうかを深く洞察する事もなく、他のキリスト者の為にキリストの様に喜んで命を捨てるキリストの犠牲の愛を動機とせず、いたずらに批判と反対を繰り返しているとすれば、それは「人の罪であり、高ぶりだ」と聖書は教えています。また、もし信徒によるリバイバル運動のIMMJAPANが聖書的で、主から出ている運動であれば、自分も喜んで参加し奉仕をしたいと建設的な動機がなければ、どんなにご自分の批判を正当化しようと巧みに言葉を並べても、その批判は批判の為の批判、反対の為の反対という、立ちの悪い欺瞞となります。パウロは、語るなら全て建徳的、建設的であれと教えています。建徳的とは、人が愛に満ち溢れた主であるキリストに徹底的に従う人生を送るように願って語られる言葉です。自分が主の御心であれば、又、聖書的であれば命をかけて従う事を目指していない人は、自分の意に沿わない問題に遭遇した時に、建徳的な言葉を語る事が非常に難しくなっています。もし、命がけで「主の御心であれば、これもしよう、あれもしよう」という、お気持ちが牧師方やキリスト者の兄弟姉妹にあれば、IMMJAPANとがっちりと手を組んでご自分の教会形成や宣教活動に励まれる事でしょう。なぜなら、IMMJAPANは聖書の教えにぴったりと寄り沿いながら「主の御心ならば、あれもしよう、これもしよう」と、命がけで主に従うキリスト者を生みだし、各個教会において、また、生活の場において主に奉仕をするように教え整えているからです。

▲信仰による自由は信仰者のプライバシー
牧師方がもし、「主の御心ならばあれもしよう、これもしよう」と、主の御心に命がけで目指されていれば、信徒の皆さんが「主の御心だと判断して生きる自由」を、たとえ自分の意に沿わなくても許すでしょう。もし、信徒の方を主の御心に委ねる事ができず、自分の意に沿う事だけを信徒の皆さんに求めるとすれば、それはカルト化ではないでしょうか。信徒に自由を許したら分裂の問題となると心配をされる牧師方がおられれば、それも欺瞞だと是非お気づきになって頂きたいと思います。過去において、分裂問題を体験された心の傷があるかもしれませんが、その痛みを理解させて頂きながらも、その心配こそが分裂の原因となる危険があります。それは、思い煩いや心配は主の御心ではないからです。聖書は何度も何度も「思い煩うな」「心配するな」と警告しています。何故なら、思い煩いは、古い人から生じる肉の働きであるからです。肉の働きが教会の分裂をもたらす元凶だとパウロはガラテヤ書で教えています。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(5:19-20)。主の御心において一致していれば分裂は絶対におきません。
私たちの教会はPSGに取り組んでからは、牧師も信徒も「主の御心であれば従います」という言葉が、合言葉のようになってきています。牧師の一番の仕事は、信徒の兄弟姉妹の皆さんが主の御声に聞き従う自由を持つように訓練をする事です。なぜなら、牧師である私達は、信徒の兄弟姉妹の皆さんの「主の御心と判断して生きるプライバシー」に首を突っ込んではいけないからです。キリスト者のプライバシーとはなんでしょうか。それは「主の御心であればあれもしよう、これもしようという自由です」。聖書は、全てのキリスト者が大牧者である主のみ声を知っていると教えています。又、全てのキリスト者は、心の内に与えられている油が何事も教えるので、どのようにしたら良いのかという、生活全般については誰からも教えを受ける必要はないとヨハネは断言しています。「個々人のキリスト者と主との間に誰も入る事は許されないのです。また、個々人のキリスト者は自分と主との間に誰も入る事を許してはいけないのです」。「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
個々人のキリスト者を徹底してキリストの声に聞き従って生きるように教え訓練していない牧師方がおられれば、再度、「牧師の使命と役割りは何か」を聖書の教えに沿ってお考え頂ければ幸いです。

⑤欺瞞に陥らない為に
▲古い人から生じる邪悪な感情の問題
 私達教会の指導者が、欺瞞に陥らない秘訣はあるでしょうか。それは、生まれながらの自分、罪の性質と言う原罪をもって生まれた古い自分は、巧妙な欺瞞者であるという事を先ず認める事です。パウロは生まれながらの自分が不真実なものだと認めています。ローマ7章で自分の欺瞞性に絶望の声を上げています。エレミヤも人の心の偽善性(陰険さ)は万物に優るもので、それは人の性質となっていると教えています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)
パウロがキリスト者を迫害したのも彼の欺瞞から来ていたのですが、気づきませんでした。欺瞞とは、自分の欲の為に、人をだまし巧妙に義人を装う事です。例えば、イエス様を十字架につけた当時ユダヤの指導者の事を例に考えてみましょう。イエス様を十字架にかけた当時の指導者達は声そろえて自分達の正当性を主張しました。「イエスは神を冒涜した」です。モーセ律法では神の冒涜は「死刑」に当たる事は当時ユダヤ人なら誰もが知っていたでしょう。その知識に訴えてイエス様を死刑に処する事を正当化しました。正に立ちの悪い欺瞞です。そのような立ち悪い欺瞞性は指導者だけでなく、イエス様を十字架につけよと叫んだ民衆も持っていたのです。そして、私達も皆分け隔てなく持っているのです。パウロがローマ書でその罪の実態を暴露しています。救われたキリスト者と言えども、また、牧師に召された私達も、生まれながらの罪の性質をもっている故に、巧妙な嘘つきになっているのです。まず、その事を100%認める事がなければ、欺瞞の罪に陥る危険性が高くなります。嘘とか欺瞞という罪はヤコブが教えているように、欲から生じます。欲がはらんで罪を生むのです。食欲とか、性欲とか、肉体的な貪欲は分かり易いのですが、分かりにくい貪欲は、神様よりも人からの賞賛を求めるという貪欲と自分意のままにしたいという「支配欲」という精神的貪欲です。その貪欲の為に、人は批判されたり、他の人が賞賛されたりすると、すぐに自分で自分の自尊心を傷つけたり、妬んだり恨んだりという邪悪な感情を意志に関係なく大変自然にもってしまいます。それこそ、偽りの父であり人殺しである悪魔の子の性質です。なぜなら、傷ついた自尊心や、妬みや恨みの感情を放置していると、いつしか人を殺すという恐ろしい罪を犯すに至る事があるからです。ユダヤ人の指導者がイエス様に殺意を抱いた根本的な理由は、民衆に人気のあったイエス様の存在によって、自分で自分の自尊心を傷つけ大変不愉快になり、妬みと憎しみ(殺意)の邪悪な感情をもったことによります。

▲「承認の欲求」と「支配欲」の問題
何故、教会の指導者が信徒の兄弟姉妹の自由を喜ばないのか、その根本的な理由が二つあるように思います。人から褒められたいという「承認の欲求」と、それと連動してい
る自分の意のままにしたいという「支配欲(権力欲)」です。教会の指導者である私達は「教会の兄弟姉妹を支配し、自分の意のままにしたい」と、誰もそんな不純な動機で牧師や伝道者に献身したのではありません。純粋に神様の愛に燃えて、献身して牧会者の道を歩み始めたのです。しかし、生まれながらの自分である、人からの賞賛を貪欲に求める「承認の欲求」と自分の意のままにしたい「支配欲(権力欲)を持つ「古い人」がどんなキリスト者にも残存していますので、その古い人がキリストと共に十字架で死んだ事を聖霊によって諭して頂いていないと、自分の意に反して、又、当初の純粋な献身の心に反して、いつしか自然とその貪欲に汚染され、不純な動機で奉仕をするようになるのです。私は、自分の過去の牧会の失敗として、私のビジョンに反対する姉妹に一度怒鳴りちらした事がありました。教会のビジョンと言いながら「傷ついた自尊心」の為せる欺瞞の罪でした。悪魔の非常に巧妙な策力は、キリスト者の心の中の古い人のもつ貪欲をつつく事です。油断しているとやられてしまうのです。「承認の欲求」とか「支配欲(権力欲)」「傷ついた自尊心」という不純な動機こそ「心の隠れた罪」なのです。
それ故に、教会で信徒の兄弟姉妹が、教会の指導者に相談しないで神様の導きで聖書的で霊的な働きに参加すると、時に指導者の心が騒ぎ「自尊心(プライド)が傷つき」不愉快になって行きます。そこで、「教会に分裂をもたらす」とか、「先ず牧師に相談してからすべきなのに黙ってする事は非常識で異端だ」とか、「悪霊から出ている」とか、尤もらしい言葉を色々と並べて、聖書の教えから外れた御霊の御声によらない、肉による自己主張を始めるのです。そこにはキリストの聖なる心がないのです。それこそが、教会分裂の元凶だという事に教会の指導者は気づくべきだと思います。キリストの聖なる心をもっている人ならば、例え事実に沿っているとしても、先ず、問題を感じれば、先ず当事者ととことん十分に話合いをし、お互いに理解し合う努力をされるだろうと思います。それをしないで、インターネット等を利用して名指しで批判を展開するという、非建徳的な愛の無い事は絶対にされさないでしょう。又、キリストの聖なる心をもっている人は、インターネット等による邪推的な情報に振り回される事は絶対にありませんし、牧師に相談しないと「異端」だと、誹謗中傷的な暴言を吐きません。神様を恐れましょう。

▲キリストと共に十字架で過ぎ去った「古き人」とは
古い人の罪の性質とは、貪欲の傾向性の事を意味しています。もし、生まれながらの貪欲の傾向性を持っている古い人がキリストと共に十字架に死に永遠に過ぎ去った事を聖霊によって諭して頂いていないと、どのようなキリスト者も、人から褒められたいという「承認の欲求」と自分の意のままにしたいというサタンより来た「支配欲(権力欲)」という貪欲により、自分が批判をされたり、自分よりほかの人が称賛されたり、認められたりすると、どこか意志に関係なく自然と湧き起こってくる邪悪な感情によって心が騒ぎ、自尊心を傷つけ大変不愉快な気分を持つ自分を正しく対処できず、問題を起こします。そのような不純な心、邪悪な思い、自分で自分のプライドを傷つけた不愉快な感情は、意志の力では消滅させる事が出来ないので、心の奥深くに赦さない気持ちを持ち続けるのです。意志の力の限界です。

▲欺瞞者・偽善者とは
「古い人が死んだ」という霊的事実を知らない多くのキリスト者は、そのような邪悪な感情が生じれば、意志の力で心の奥底に押し込み、自分を偽善者、欺瞞者にしているのです。他者の喜びや幸福を妬んで不愉快になっているのに、妬んでいないかのように、不愉快でないかのように、喜びを共有しているかのように振る舞うのです。また隣人が痛みや苦しみを負っている、とどこかせせら笑っている自分が潜んでいる事を発見しますが、それを意志によって隠して痛みや悲しみを共有しているかのように装うのです。気を付けないと教会は「偽善者を生み出すところ」となる危険があります。あるキリスト者は、欺瞞者や偽善者になっているにも関わらず、邪悪な感情を心の奥底に押し込め、善人を装う事が正し事だと思うのですから、厄介です。そのような欺瞞、偽善に気づかず、正しい人間だと自負し尊敬も受けていたのが、イエス様に敵意をもった、当時パリサイ人や律法学者達でした。自分達の偽善に全く気づかない彼らを、イエス様は何度「偽善者」と呼ばれたでしょうか。恐ろしい事ですが、パウロの説いている古い人がキリストと共に十字架に死んだという霊的事実に、聖霊によって心の目が開かれていなければ、キリスト者と言えども、牧師と言えども、自ずと偽善や欺瞞に陥るのです。それが罪に堕落した私達の宿命なのです。ですから、神様はIMMJAPANのPSGで、福音の全体像を啓示して多くのクリスチャンを偽善と欺瞞からお救いになっているのです。又、その事を7年前に聖霊によって諭して頂いた私をIMMJAPANの弁明者に立てられていると思います。
「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのです。」(Ⅱコリント5:14)
⑥IMM JAPANは
聖書的で正当的なキリスト教宣教団体の一つ
▲聖書的なキリスト教の諸団体の役割り
  日本や世界にはキリストの福音を伝える為に、又、キリストの愛の実践の為に多くの諸団体が存在しています。そうした団体は、各個教会の宣教活動や健全な教会形成や成長に仕えておられます。例えば、クリエーションリサーチという聖書の創造主による天地万物の創造を、進化論と対峙して科学的に証明する団体がありますが、そのような団体に各個教会に所属するキリスト者の方々が主の導きの中で奉仕をされています。また、中川健一先生による「ハーベストタイム」という、宣教団体があり、それに各個教会に属する人が主の導きで仕えています。その集会に色々な各個教会に属する人が導かれて、恵まれ各個教会を支えています。私は、CDを通して聖書講演を聞き恵まれています。そうした正当な団体による集会や活動に、キリスト者が主の導きと信じて参加する時に、1回1回教会の指導者に相談をする義務はあるでしょうか。勿論主が相談をしなさいと声をかけられれば別ですが。もし、相談なしに教会員が他のキリスト教団体の集会や活動に参加している事が分かれば、自分に相談をしなかった事を問題にするのでなく、その団体が神様の御心に叶ったものかどうか、正しく調べて聖書的だと判断できれば、広い心で見守るという事はしても、主に許されたキリスト者の自由を尊重して妨げてはならないと思います。教会の指導者は、自分の心の中にある意志に関係なく古い人から自然と生じる、人から称賛してほしいという「承認の欲求」と自分の意のままにしたいという「支配欲(権力欲」によって、自分のプライドを傷つけ不愉快になって、兄弟姉妹方の信仰による自由を束縛するという罠に陥らないように、自らに厳格であるべきでしょう。

▲IMMJAPANは「聖書的である事」と「主に聞き従う事」に全力を注ぐ信徒の宣教団体である
 IMMJAPANがカルトか異端かを見極める最も重要な物差し、最も重要な審判者は聖書そのものです。批判をされる方は、金山ドクターのメッセージが、聖書に照らして間違っている事があれば、そこで初めて批判は展開されなければなりません。もし、聖書の教えに照らして間違ったメッセージや教理が説かれていれば、人から聞いたとか、著名な人を出してだれだれが言っているとか、欺瞞的な弁証でなく、自分の責任でもって堂々と聖書に沿って御霊の導きの中で批判を展開できますが、今のところそれはなされていません。聖書の教えに命がけで従っている人達の組織であれば、その組織はカルトや異端的な組織には絶対になりません。
キリスト者が物事の真実を見極めるには、聖書の教えに照らしわせる事と同時に、主に聞く事が大事だと思います。「主から出ている」という事が主張される時、反対者も「主から出ている」と言えるように心低くして主に問うべきです。主から出ているという主張に対抗する時は、批判する側も主を味方につける必要があります。その時には、誰にも分かるように客観的な聖書的裏付けをきちんとするように主は導かれるでしょう。また、直接にその団体の集会に参加して実際にどのような事が話され、どのような活動がなされているのか調べるべきだと思います。又、疑問があれば直接的に聞くべきでしょう。そうした、キリスト者として最低限求められる努力をしないで、IMMJAPANは会計報告(NPOとして決算報告はなされているとお聞きしています)がないとか、脱会者がどうのこうのと、だれだれがどうのこうのと、人の言葉や噂や邪推によるインターネットの批判的情報を、自分の反対の正当化に利用するという欺瞞は絶対に避けなければなりません。神様を恐れましょう!
多くの福音的で聖書的で正当的な超教派による団体があるように、IMM JAPANは「聖書的な信徒によるリバイバル運動の宣教団体」だと私は位置づけております。それに参加すると、教会が分裂する、或いは信徒の方が教会の指導者や教会を軽んじるという事は決してありません。逆に各個教会に大きな恵みと祝福が父なる神様によって注がれる事でしょう。私達はPSGを初めて未だ四カ月ですが、私は牧師として健全な教会形成の為に大変感謝しています。沢山の証がありますので、よろしければ是非個人的にお聞きくだされば幸いに思います。
 主にある全国の教会の指導者の牧師方と全てのキリスト者の兄弟姉妹方が心の目、霊の目を開いて、IMMJAPANの真実な姿をご覧いただきますように、父に祈ります。

【終わりに】▲ T姉妹の証 ▲
 終わりに、私の教会のT姉妹の体験を報告し、IMMJAPANが神様から出ている正当的な信徒によるリバイバル宣教団体である事を証明させて頂きます。
T姉妹は二十年程の信仰生活を送ってきましたが、神様の赦しを信じる事は出来ても、隣人愛の実践が出来ず苦しんで来ました。そんな彼女が今年の8月5日より開始しましたPSGにより、主からの御霊による細き御声を聴く霊性が研ぎ澄まされてきました。これまで、隣人を憎んだり恨んだり、自尊心を自分で傷つけ不愉快にしたりする「古い人が2000年昔に十字架でキリスト共に死んだ」という歴史的霊的事実のメッセージを何度も聞いてきましたが、悟る事ができず悩んでいました。ところが今年の10月17日の夜に、主が彼女の心の目を開き、人を愛せない、感謝出来ない、逆につぶやいたり文句を言ったりする自分という古い人がキリスト共に十字架で死んだという霊的事実をはっきりと諭されたのです。それ以来、心にはいつも喜びが満ち溢れるようになったのです。その変化に私達はすぐに気が付きました。姉妹の事については、私がPSGで全ての事に感謝する人になるという幻を主から見せて頂いておりました。それは、「夏の暑い日に汗をかいているT姉妹が、神様に感謝しながら、沢山のタオルをたたんでいる」という幻でした。神様の解説により、彼女はやがて全ての事に感謝するキリスト者に引き上げられると知りました。その幻によっ
て知らされた事が見事に成就したのです。今、彼女は、「主の御心なら従います」と、喜んで主に仕え、奉仕する姉妹へと主によって変えられました。
T姉妹の魂の変革こそ,IMMJAPANのPSGにおける神様の祝福の本筋の流れであり、主の御再臨に備えるユダヤ人の救いとリバイバルの為の神様の備えです。感謝して報告をさせて頂きます。

【IMMJAPAN全国10都市大会へのご案内】

主が米国の金山ドクターを通して、日本のキリスト者の祝福と多くの魂のリバイバルの為に、また、健全な教会形成の為に、次から次と啓示を与えておらえます。その金山ドクターが、今年の年末年始に。主からIMMJAPANの10都市大会をするように啓示を受けられましたので、下記の通りに10都市大会が行われます。詳細はインターネットでご覧ください。金山ドクターに啓示された日本のキリスト者への幸いなメッセージに耳を傾けて頂けませんか。全国の諸先生の牧会にきっと主からの革命がおこると思います。牧会が喜びと楽しみで溢れるようになると思います。全てのキリスト者の信仰生活に大革命が起こります。年末のご多忙の中ですが、全国都市大会にお出かけ下さいますように心よりご案内をさせていただきます。インターネットより申し込みが可能となっています。IMMJAPANで検索をして下れば申し込みが出来るように設定されています。50名の定員ですので、お早めの申し込みをお勧めいたします。
日本に大リバイバルが必ずやって来る事を信じます!
主の平安と祝福が、主にある全国の諸先生及び全てのキリスト者の上に豊かにありますようにお祈り致します。

      西日本5都市大会                                      
①和歌山 12月20日(土)14:00 和歌山ビッグ愛
②徳島  12月21日(日)15:00 とくぎんトモニプラザ
③富山  12月23日(火)13:00 富山タワー111
④高松  12月27日(土)14:00 香川県民ホール
⑤鳥取  12月28日(日)15:00 とりぎん文化会館

      東日本5都市大会
①浜松   1月10日(土)14:00  アクトシテイ浜松
②水戸   1月11日(日)16:00  ホテルサトー水戸
③長野   1月12日(月)14:00 長野市生涯学習センター
④宇都宮  1月17日(土)14:00 宇都宮市文化会館
⑤会津若松1月18日(日)16:00 会津若松市文化センター